「誠実さ」について、誰も見ていない時にも効く個人的な原則をどう書くか
誠実さという言葉は、ルールとして使われるより、褒め言葉として使われることのほうが多い。そしてそれこそが問題だ。誠実な人間かと尋ねれば、ほとんど誰もが「そうだ」と答える。傲慢だからではなく、その言葉がいつの間にか、検証できる何かではなく自分についての漠然とした印象を指すようになってしまったからだ。実際にそれが試される瞬間は、たいてい静かにやってくる。誰も確認しようがない作業でこっそり手を抜いた瞬間。かつて自分と交わした「こうする」という約束を、最初に都合が悪くなった日にそっと下ろしてしまった瞬間。同じ出来事について、ある場では自分に少し甘いバージョンを語ってしまう瞬間。どれも誰のレーダーにも映らない。自分以外には。だからこそ誠実さについての原則は、たいていの原則と違う——唯一の監視の仕組みは、実際に何が起きたかを自分で書き、自分で読み返しているかどうかだけだ。
なぜ「誠実な人間でいる」は破りようがないのか
原則というものは、ある特定の日に、指させる形で破れるものでなければならない。「誠実な人間でいる」はその時点で失格だ。手を抜いているまさにその瞬間を、誠実さの欠如として体験する人はほとんどいない。それは「効率的にやっただけ」「常識的な判断」「誰にも知られる必要のない話」として、その場でラベルを貼り替えられてしまう。自己イメージが崩れずに済むのは、それが一度も具体的な出来事に結びつけられたことがないからだ。月に何十回、自分にこっそり甘くしても、それでも正直に、「肝心なときにはきちんとする人間だ」と思っていられる——「肝心なとき」が結局いつも、「誰かが見ているとき」を意味してしまうからだ。
誠実さが正直さより原則として書きにくいのも、これが理由だ。正直さは主に、他人に何を言うかの話だ。誠実さは、誰かに何かを告げるという場面そのものが存在しない状況で、実際に自分が何をするかの話になる。がっかりする聞き手もいなければ、その場で捕まえられる嘘もない。あるのはただ、「そうすると言ったこと」と「実際にしたこと」の間の隙間だけで、それは何かがわざわざ見に行かせない限り、勝手に静かに閉じてしまう。
誰にも見つかりようのなかった瞬間から掘り出す
自分が誠実な人間かどうかを問うところから始めないでほしい。代わりに、こう問う。
- 「こういうやり方でやる」と自分と約束していたのに、誰にも違いが分からない日に、こっそり楽なほうへ切り替えてしまったことはあるか。
- 他人には課している基準なのに、確認できるのが自分だけの場面では、実は自分に適用していない基準はあるか。
- 最近終わらせた作業の中で、自分で決めた基準に届いていなかったと正直に分かっているものはあるか。そのとき、それでいいのだと自分に言い聞かせる話を作らなかったか。
- 価値観について、他人に語る言葉と、自分一人で決めるときの少し都合のいいバージョンとの間に、ずれはあるか。
きれいにまとめた結論ではなく、具体的な出来事を書く。「サインする前に書類をきちんと読むと自分に約束していたのに、疲れていたので流し読みで済ませた。どうせ誰も確認しない」——これが誠実さについての原則が本当に受け止めるべき場所を、正確に示している。「物事はきちんとやるよう心がけている」は、同意するのに何の代償もいらない一文であり、次の疲れた午後には持ちこたえられない原則すべてに共通する、あの兆候そのものだ。
ルールは人格ではなく、誰も見ていない瞬間について書く
誠実さについての原則は、自分がどんな人間かという主張ではない。きちんとやることと楽をすることが、自分以外の誰の目にも同じに見える、その具体的な瞬間に何をするかというルールだ。「私は誠実な人間だ」はどんな出来事とも照合できない。定義上、そこには確認する他人がいなかったからだ。「誰も細かく確認しないと分かっている作業でも、誰かが確認するときと同じ基準でやる」なら照合できる。そこには瞬間があり、選択があり、あとになって自分が正直に、どちらを選んだかを言える。
どんな原則にも当てはまる二つの検証がここでも成り立つ。破れるか——自分だけが、守ったか破ったかを言える、具体的でプライベートな瞬間があるか。代償を伴うか——どうせやるつもりだった近道にいつも賛成するだけの原則は、何もしていない。あとからその近道にもっともらしい理由をつけているだけだ。
自分でも見逃したことに気づける行動基準をつける
原則そのものは大きく保ち、具体的な部分はその下に置いて、自分を試す状況が変わるたびに書き直せるようにする。「誰も確認しない時も、確認される時と同じ基準で自分を扱う」という原則なら、行動基準の例はこうなる。誰にも見えない部分の作業も、見える部分と同じように仕上げる。あるルールが今回だけ自分には当てはまらないとこっそり決めたときは、その本当の理由を書き留めて、素通りさせない。自分を実際より良く見せる形で出来事を語っていると気づいたら、聞き手がチェックインの記録しかいなくても、それを訂正する。どれも実際にできるくらい小さく、その日の終わりに正直に「できたか、できなかったか」を言えるくらい具体的だ。
誠実さは頑固さとは違う
誠実さについての原則は、「決して考えを変えない」「決して例外を認めない」ことだと誤解されやすいが、それは別の種類の失敗だ。上の基準が防ごうとしているのは、誰も気づかないときに自分の基準をこっそり下げることであって、よく考えた末に間違っていたと分かった基準を書き直すことではない。しっかり考えたうえで、自分に課していた基準が厳しすぎたと判断し、より良いものに書き直す——これは誠実さが正しく機能している姿であり、その理由は記録に残る。同じ基準を、その場の都合と誰にも聞かれないという理由だけでこっそり手放すことこそが、この原則が捕まえようとしている失敗だ。守る価値があるのは、説明できる修正と、あまり口にしたくない手抜きとの間の線だ。
実際に手を抜いたその瞬間にぶつけてみる
自分の記録から掘り出した具体的な出来事——自分の基準に届かなかった作業、こっそり下ろした自分への約束——を、原則に直接ぶつけてみる。それがその瞬間の行動を変えていたなら、その原則には牙がある。そのまま残そう。何も変わらないなら、その原則は実際の自分ではなく、理想化された勤勉さを描いているだけであり、望んでいた隙間ではなく、実際にあった隙間を中心に書き直す価値がある。誰かが見ているときにしか試されないルールは、そもそも誠実さの話ではなかったということだ。
これは CreedOS の信条が受け止めようとしている形にとても近く、むしろ多くの原則よりも近い。書き出された原則の下に行動基準がぶら下がり、たいていは自分しか見ないチェックインで日々確かめられる——誠実さという原則が、ただ信じられるだけでなく実際に試される、数少ない場所のひとつだ。誠実さは CreedOS が用意する六つの領域(効率・人間関係・感情・お金・健康・認知)のどれか一つではないが、実際にはそのすべての下を流れている糸でもある。自分で自分のために書いた行動基準を、誰にも気づかれない日にも守れているかどうか、という糸だ。完全無料で、アプリ内課金もない。