責任について、誰にも見つからなくても揺らがない個人の原則をどう書くか
「自分の失敗には責任を持つ」というのは、自分についてかなり信じやすい言葉です。思い出す証拠が、たいてい人に見られている場面だからです。上司に謝った、口論のさなかに相手の前で自分の非を認めた。誰かが見ている場での責任の取り方は、いちばんやさしいバージョンにすぎません。本当の試練は、誰も確かめようがない場面のほうです。黙って見逃せる失敗、運が悪かったという本当の説明でいくらでもごまかせる結果——それでも誰にも違いは分かりません。責任についての個人の原則が扱うのは、「失敗には責任を持つ」という心構えではなく、責任を認めることに代償があり、しかも誰も気づかない、その具体的な瞬間にどう動くかです。
「自分は責任を持つ人間だ」がなぜ破れないのか
自分の失敗に責任を持つかと聞かれれば、ほとんどの人が本気でイエスと答えます。思い出しているのが、人に見られていた場面だからです。観客のいる謝罪、すでに誰かに見つめられ、答えを待たれていたから生まれた告白。それらは本物ですが、責任の取り方としてはいちばん簡単な部類でもあります。人前で認めないことの社会的コストは、認めることのコストより高いことが多いからです。誰かが見ているときにしか試されない原則は、実のところ一度も試されていません。責任を取らせているのはその場であって、自分自身ではないのです。
実際に何をするかが見えるのは、観客のいない場面です。誰も確認しない報告書の中で、自分に都合よく丸められる数字。黙って直して、二度と口にしない誤り。「たまたま起きなかったこと」で済ませられる、やり損ねたこと——「自分」がやらなかったとは言わずに済む場面です。どれも、自分が責任を避けていると自覚する瞬間はありません。責任という言葉そのものが、一度も話題に上らない瞬間があるだけです。話題に上げる立場にいるのが自分しかいないからです。
責任と見間違えられやすい動き
責任を取っているように感じられて、実はそうではないことがよくある動きがあります。それは「説明すること」です。説明することと引き受けることは、ほとんど同じ言葉を使っていても別の行為です。「締め切りに間に合わなかったのは、同時に別の二件が入ってきて、三件目にかかる時間を見誤ったからだ」——これは真実で、意味のある一文です。しかしこれ単独では、完全な盾にもなります。聞いている相手にも、自分自身にも、責任を完全には背負わなくてよい逃げ場を与えてしまうからです。見分けるポイントは、説明が本当かどうかではありません。たいてい本当です。見分けるポイントは、その後に何が続くかです。説明で終わる話は、「本当は自分のせいではない」という物語です。「次はこうする」で終わる話が、責任を取るということです。最初の一文はまったく同じでも、この二つはまったく別の行為です。
自分が責任を取れているかを推測せず、自分の記録を掘る
「自分は責任感のある人間だろうか」と自問するところから始めないでください。代わりにこう聞いてください。
- 最近、明らかに自分のせいで、しかも誰にも絶対にばれない出来事があったとき、実際に何をしたか。黙って直して何も言わなかったか、それとも直したうえで自分から言ったか。
- すぐに認められる種類の失敗はないか——認める代償が小さいから。逆に、認める前にまず言い訳が先に出る種類の失敗はないか——素直に認めると格好悪く見えるから。
- 前回、誰かに失敗を説明したとき、その話は説明で終わったか、それとも「次はこうする」で終わったか。
- 今もまだ、状況のせいにしていることはないか。もしそれが他人の話だったら、まったく違う語り方をするはずのことはないか。
整えた自己評価ではなく、具体的な出来事を書いてください。「クライアントが直前に範囲を変えたとチームに伝えたのは本当だが、二週間前からそのリスクにうすうす気づいていながら誰にも指摘しなかったことは言わなかった」というのは、原則がどこで効くべきかを正確に教えてくれます。「自分の失敗には責任を持つ」は、何の代償も払わずに署名できてしまう一文で、それこそが、次に本当で都合のいい説明が目の前にあるときには何も助けてくれないという証拠です。
謝罪についてではなく、説明の前の瞬間についてルールを書く
責任についての原則は、自分がどんな人間かという主張ではありません。それは、何かが自分の責任だと気づいた直後、まだ誰にも——自分自身にも——何も言っていない、その具体的な瞬間のためのルールです。「自分は責任を持つ」は、どの一件とも照合できません。責任を取ることと、黙って取らないことの間に、目に見える境界線がないからです。「自分の力が及ばなかった要因に触れる前に、次に何を変えるかをまず言う」なら照合できます。瞬間があり、順序があり、あとからその順序どおりにやったかどうかが分かります。
どんな原則にも当てはまる二つの検査をかけてください。破ることができるか——説明が先に出て、「次にどうするか」が一度も出てこなかった、と言える具体的な例はあるか。何かを犠牲にするか——誰かがすでに見ているときにしか発動しない原則は、実のところ何も動かしていません。唯一の証人が自分自身であるときにも成り立つ必要があります。
他人がその場にいなくても確認できる行動基準を付ける
これは、第三者のいない場面でこそ試されやすい原則の一つです。だからこそ、その下に付ける行動基準がいっそう重要になります。それが、「自分は責任を持つ」がいつの間にか「その日都合のよかった意味」に変わってしまうのを防ぐ歯止めだからです。客観的な要因に触れる前に、次に変えることを言うという原則なら、有効な行動基準はこうなります。誰かに何が起きたか話す前に、次にやる具体的なことをひとつ書き出す。人に話す内容自体は変わらなくてもかまいません。状況の説明のほうが変える内容の説明より長ければ、前者を短くする。「次はこうする」と言ったことは、思い出したときではなく、決めた日に実際やったかを確かめる。どれも、この失敗についてもっとつらい気持ちになれとは求めていません。どれも、次に何が起きたか気づいたとき、できたかできなかったかをはっきり答えられます。
自分に厳しくすることとの違い
自分の性格に対する長く厳しい判決は、短く正確な一文より責任を取っていることにはなりません。むしろ逆であることが多いです。「自分は完全にやらかした、いつもこうだ、変わらなければ」と言うのは、気まずい数分間を払うだけで、そのあと具体的に何かを求められることはありません。事実をひとつ、変えることをひとつ、はっきり言うほうが、その場では言いにくくても、そのあとには重みが残ります。次に何かを確認できるからです。責任を取るということは、判決の重さの問題ではありません。同じ状況が次に起きたとき、結果が変わるかどうかの問題であり、自分への厳しい一言がそれを保証したことは一度もありません。
誰にも見つからなかったはずのあの一件で、その原則を試す
自分の記録から、黙って見逃せて誰にも分からなかったはずの、あの具体的な出来事を取り出し、原則をそのまま当ててみてください。説明の前に変えることを言っていたら、実際に次にやったことが変わっていたなら、そのルールには意味があり、そのまま残せます。何も変わらなかったなら、そのルールは狙う瞬間を間違えています。書き直す価値があり、捨てる必要はありません。自分の記録の中に見つけたパターンそのものは、最初のルールがその現れる場所を正しく狙えていなかっただけで、今も本物だからです。
責任は、CreedOS があらかじめ用意している六つの領域には入っていませんが、社交、感情、お金、健康、認知と並ぶ効率のテンプレートの中に、たいてい潜んでいます。それぞれに行動基準まで書き込まれた信条が用意されていて、そのまま使うことも、自分が最初に選ぶ言葉を正確に言い当てられるまで書き直すこともできます。毎日の打刻には、できた、あるいはできなかった具体的な出来事をひとつ記録する欄があり、ちょうどこの原則が求める大きさの事実を書き込める広さです。自分への判決ではなく、何が起きたか、次に何を変えるかだけを記録すればよいのです。完全に無料で、アプリ内課金もありません。